2025年9月。娘(当時2歳3ヶ月)が、家の近くの大きな木を見上げました。誰も「危ない」とは言いませんでした。娘はそのまま、登り始めました。
何回か落ちました。泣きました。それでも、また登りました。そしてある日、すっと頂上まで登り切り、こちらに向かって「やっほー!」と手を振りました。
その瞬間、私は確信しました。木登りは、最高の知育だと。

「怖い」は誰が作るのか
娘が最初に木に近づいたとき、特に怖がる様子はありませんでした。事前に「木登りは危ない」と伝えていなかったからです。
この体験から、あることを感じました。子どもにとって「怖い」は、多くの場合、大人から学ぶものなのではないかと。
これは科学的にも裏付けられています。心理学では「社会的参照(Social Referencing)」と呼ばれる現象で、乳幼児は初めて見る状況に直面したとき、親の表情や反応を見て「これは安全か、危険か」を判断します(Sorce et al., 1985)。親が不安な顔をすれば、子どもも不安を感じます。逆に、親が平静でいれば、子どもは「大丈夫なんだ」と学習します。
「危ない」という言葉を先に渡してしまうことで、子どもの自然な探索意欲にバイアスをかけてしまう——木登りの場面で、それを強く感じました。
木登りで育つ3つの力

1. 感覚の統合——自分の体がどこにあるかを知る力
木登りは、全身を同時に使う運動です。どの枝をつかむか、足をどこに乗せるか、体をどう傾けるか。娘の場合、頭上の枝をくぐりながら次の枝に足をかけるという、複雑な動きを自分でやり遂げていました。
この過程で鍛えられるのが、固有受容感覚(筋肉・関節から「自分の体がどの位置にあるか」を感知する力)と前庭感覚(重力やバランスを感知する力)です。視覚・聴覚ほど意識されませんが、これらはすべての運動・学習・集中力の土台となる感覚です。
作業療法士のアンジェラ・ハンスコムは著書『Balanced and Barefoot』(2016)の中で、「現代の子どもは屋外での非構造的な遊びが激減し、感覚統合の発達が不十分になるケースが増えている」と指摘しています。木登りのような遊びは、この感覚統合を日常の中で自然に鍛える数少ない機会です。
2. 実行機能——自分でルートを考える力
木登りには、決まった正解がありません。どの枝を選ぶか、どの順番で体を動かすか、すべて自分で判断しなければなりません。これはまさに実行機能——計画、判断、衝動制御、注意の切り替えといった高次の認知機能——を総動員する行為です。
ハーバード大学の認知神経科学者アデル・ダイアモンドは、実行機能が前頭前野を中心に発達し、学業・社会性・感情制御のすべてに関わることを示しています(Diamond, 2013)。
また、娘は一度登り方を身につけると、次からは同じ手順で迷いなく登れるようになりました。これは以前のパズルの記事でも紹介した「手続き記憶」——自転車の乗り方のように身体で覚える記憶——と同じ仕組みです。木登りもパズルも、反復を通じて脳が最適なルートを記憶していきます。
3. レジリエンス——「怖い・痛い」を超えていく力
娘は何回か落ちました。泣きました。私はそのとき、「やめようか」とは言いませんでした。「痛かったね」と、痛みだけに触れました。すると娘は、また木に向かいました。
ノルウェー科学技術大学のエレン・サンドセターとリーフ・ケナイールは、リスクのある遊びに関する研究の中で、「スリルを伴う体験には恐怖症を予防する効果がある」と述べています(Sandseter & Kennair, 2011)。管理されたリスク体験——落ちる、怖い、それでも挑戦する——がストレス耐性とレジリエンスの基盤を作るのです。
「やめさせる」ことのコスト

あの日、周りには同い年から2歳上くらいの子どもたちもいました。親によっては止めている方もいましたが、やらせていた親の子どもたちは、みんなある程度登れるようになっていました。
きっかけは2つありました。娘が登っているのを見て「やってみたそうにしていた」こと、そして大人が促したこと。心理学者のアルバート・バンデューラが提唱した「社会的学習理論」(Bandura, 1977)によれば、人は他者の行動を観察することで新しいスキルを習得します。娘の姿が、周りの子どもたちへの「モデル」になっていたのです。
一方で、アメリカの発達心理学者ピーター・グレイは「子どもの自由な遊びの機会が過去数十年で急速に失われており、それが子どもの不安・うつ・自己効力感の低下と相関している」と論じています(Gray, 2011)。「危ない」と止め続けることには、見えにくいコストがあります。
泥遊び・水遊びも、同じ理由で大切にしています
先日、雨上がりの公園で泥溜まりを見た娘が、足を入れたそうにしていました。面倒だとは思いましたが、「経験だ」と思ってやらせると、夢中になって遊んでいました。
なぜ泥や水が子どもにとって魅力的なのでしょうか。感覚的な視点から見ると、泥は触覚・温度感覚・重さの変化など、豊富な感覚刺激の塊です。さらに、土の中の微生物を通じた免疫系の発達という側面もあります。
旧友仮説(Old Friends Hypothesis)
英国のグラハム・ルークは、「人類は進化の過程で土や自然環境の微生物と共生してきた。現代の過度に清潔な環境はその接触を断ち、免疫系の過剰反応(アレルギー・自己免疫疾患)を引き起こす可能性がある」と論じています(Rook, 2013)。泥遊びは、免疫教育の場でもあります。
「汚れるからダメ」という一言が、こうした複合的な発達の機会を奪っているかもしれません。
親の関わり方——「見守る」とはどういうことか
「やらせる」といっても、放任ではありません。私が意識しているのは、主に2つです。
① 転ぶ前に手を出さない
先回りして止めない。自分で考え、自分で判断させる。失敗しそうな場面でも、まず見守ります。子どもが自分でリスクを評価する経験こそが、実行機能とレジリエンスを育てます。
② 失敗したあとは「痛み」だけに触れる
落ちて泣いたとき、「だから言ったでしょ」や「もうやめよう」は言いません。「痛かったね」とだけ伝える。すると子どもは、失敗を「終わり」ではなく「途中」として受け取ります。これがレジリエンスの素地になります。
この方針を持つきっかけになったのは、小児神経科医・成田奈緒子氏の著書『高学歴親という病』でした。「親が先回りすることで奪われる成長の機会」という視点は、子育ての根本を見直すきっかけになりました。
まとめ
木登りは、ただの遊びではありません。感覚の統合、実行機能、レジリエンス——現代を生きるうえで必要な力を、一本の木が育ててくれます。
そしてその効果は、親が「危ない」と言わないことから始まります。子どもは事前情報がなければ、怖いとも知らずに挑戦します。何度か落ちて、痛みを知って、それでもまた登る。その積み重ねが、脳と心を育てていきます。
デジタル端末が当たり前になった時代だからこそ、木一本、泥一つの価値は高まっていると感じます。まずは近くの公園で、「危ない」を一回だけ飲み込んでみてください。
なお、泥遊び・水遊びがなぜ子どもにとって魅力的なのかについては、別記事で感覚発達の視点から詳しく解説する予定です。
参考文献
- Sorce, J.F. et al. (1985). Maternal emotional signaling: Its effect on the visual cliff behavior of 1-year-olds. Developmental Psychology, 21(1), 195–200.
- Sandseter, E.B.H. & Kennair, L.E.O. (2011). Children’s risky play from an evolutionary perspective: The anti-phobic effects of thrilling experiences. Evolutionary Psychology, 9(2), 257–284.
- Brussoni, M. et al. (2015). Risky play and children’s safety: Balancing priorities for optimal child development. International Journal of Environmental Research and Public Health, 12(6), 6031–6059.
- Gray, P. (2011). The decline of play and the rise of psychopathology in children and adolescents. American Journal of Play, 3(4), 443–463.
- Diamond, A. (2013). Executive functions. Annual Review of Psychology, 64, 135–168.
- Hanscom, A.J. (2016). Balanced and Barefoot. New Harbinger Publications.
- Rook, G.A. (2013). Regulation of the immune system by biodiversity from the natural environment. PNAS, 110(46), 18360–18367.
- Bandura, A. (1977). Social Learning Theory. Prentice Hall.
- 成田奈緒子 (2023). 『高学歴親という病』. 講談社.
